組立通信 WebMagazine

情報紙を発行していた過去を振り返ってみた

情報紙を発行したことがある。小泉政権下の2005年頃、大阪には強い閉塞感が漂っていた。「負け犬」という言葉が流行し、プロ野球球団はソフトバンクや楽天に買収されて再編され、近鉄バファローズがなくなった。「ドラえもん」では声優が一斉交代し、YouTubeとFacebookが誕生し、iTunesの登場で音楽はデータで持ち運ぶものになり、転換期の荒浪を感じていた。
どの世界にも相場があるように、雑誌や情報誌にも「ページ単価」という相場がある。そこから 個々の撮影費、ライティング費、イラスト制作費、レイアウトデザイン費、DTPデータ作成費、といった制作費を割り出す。編集制作業は頭と時間と技術を使うわりに相場が低く、なぜここまで?と思う破格の数字を提示されることが多々あった。
投資の世界と違い、下がり続ける相場が戻る日はこない。流されて沈むなら、業界に別れを告げる…前に挑戦してみよう。そう思い至って、財力もビジネスモデルも持たずに始動した。かねてより「おもしろい」と感じていた街を取材して撮って書いてレイアウトをして、出稿した。

印刷不況、でも作っても「捨てられる」印刷物

ところが。情報紙は、紙でできた印刷物である。 印刷業は設備産業だから、工場の高額な機械でカラー刷りされる「4万枚の印刷コスト」がまず高い。それも読んでいただかないと意味がない。折込や駅撒きの配布コストを合わせ、逆算すると、1枚単価はそれだけで結構なものになった。 外注費の捻出は苦しく、すべてを内製することになった。
単価の問題以上に、業界体質的になぜか多数を占める「時間にルーズで締め切りを守らないクリエイター」に外注している心の余裕はなかった。冷めたテンションの人が混ざればモチベーションが奪われてしまう。 お金をいただいて制作する側から、毎月数十万の制作費を身銭を切って捻出する側になり、クリエイティブへの姿勢が変わった。発注から出稿まですべてを担当するのだから、「安い」や「訂正が多い」などの文句をいう相手も暇もなかった。 だんだん「制作費はコストなのだ」という感覚になっていった。 それなのに、職場でも家庭でも、整理整頓&大掃除で大量に捨てられているのが「紙のゴミ」、印刷物なのである。すぐに捨てられてしまう消耗品を、お金をかけて作っている矛盾を抱えながら、毎号、切実な想いを込めて発行していた。
捨てないで、と。

捨てないで。読んで。せめて、読んでから捨てて。

大阪市北区、天満天神エリアに感じた魅力

制作物は完成品がすべてなので、努力や制作過程は売れない。世に送り出したら、たとえ無料のものであっても批判にさらされる。悪意を感じる意見もあり(それも切手代を払って郵送されてくる)、それでも「全部読んでしまった」「小ネタが面白かった」という声に多大なる励ましをいただき、心より決意をした。今後の人生、批判するより応援する言葉を発する人でいたい、と。

広告や営業もなく気合で始めたその情報誌『天満スイッち』は、直接お金を生むビジネスモデルがなかった。ただ作ってみたかったというか、街にあふれている、まだ出版社やマスコミに発見されていない魅力をコンテンツにして、世に伝えてみたかったのだ。撮りようによってはいわゆる「インスタ映え」するフォトジェニックなディープスポットもあったけれど、インスタグラムはまだこの世になかった。

情報紙『天満スイッち』のエリアは、日本一長い商店街や卸売市場、小売店、業務スーパーなど、数々の商店がひしめきあう商業地域でもあった。外食文化が抜群に盛んで個人経営の飲食店も多く、アジアなディープ感もあり、地価の抜群に高い大阪の中心部に、多彩な働き方や生き方をしているさまざまな大人たちがいた。どこにも属さず、あてにもせず、でも社会に属して生きている個性的な大人たち。または、代々続く商売を継ぎ、また継いでいく宿命を背負った大人たち。それなりにクセも強くまとまりは悪かったけれど、それを多様性というのであろう、それぞれがとても「なんか、いい」生き様に見えた。
印刷業界の不況で、当時流行っていた「ホームレス中学生」ならぬ「ホームレスフリーランス」になりそうな不安があったけれど、「安定なんて、そもそも幻想かも」といつしか思うようになっていた。人はみんな「どうにかこうにかやっている」だけなのだ。変化についていけさえすれば、くじけて落っこちないようにすれば、いろんな生き方や働き方がいくらでもある。取材先ではいろんな発見や気づきがあり、励まされることが多かった。

壇上でのうっかり発言に、手に汗を握った話

エリアの繁華街にある路地のひとつに、小さなお店がみっしりと軒を連ねていて、おばあちゃんがひとりたこ焼きを焼くたこ焼き屋さんがあった。でも、いつ通りかかっても客の姿はなかった。そして、焼かれているたこ焼きの姿は、おいしそうではなかった。 たこ焼きが丸くない。というか、ぐちゃぐちゃだった。

たこ焼き屋のおばあちゃん 天満のイラスト

それをうっかり、ある講演に呼ばれて対談中に「きたないたこ焼き」と表現してしまった。一瞬、しまったと思った。打ち上げの帰路、だんだん気になりだして、夜おそるおそる検索してみると、案の定、聴講していた方のブログがヒットした。そこには、講演のためにパワポで用意した数十枚におよぶ講演内容には一言も触れられることなく、こう書かれていた。 「きたないおばあちゃんが焼くたこ焼きの話が面白かった」。
おばあちゃんが焼くきたないたこ焼き。 きたないおばあちゃんが焼くたこ焼き。 意味が、全くかわっている…。 路地に小さなお店を構えてたこ焼きを焼いている、おばちゃん&おばあちゃんなど限りなく存在するエリアなのだ。 会話は反射神経でするものだけれど、原稿の言葉と違って言葉を差し替えることはできない。 あらぬ問題に発展するのではないか、と、しばらく眠れなかった。 その後、幸いにも事件や炎上には至らず、批判されることもなく時は過ぎ、いつしかブログもなくなっていた。批判家や悪意のある方が聞いていたら、どうなっていただろう? でももっと怖さを感じたのは、その後、いくつかのテレビ出演を経験したときだった。

やがて本になった情報誌、身銭を切って感じたコスト意識

情報紙『天満スイッち』は、やがて本という出版物に形を変え、つまりその後は出版に挑戦することになったのだけれど、請負制作だけでは決してできない経験を数々した。
電車で見かけるスクールや転職の案内に「憧れのグラフィックデザイナー」とか「夢のWEBデザイナー」とかいう変にキラキラした言葉があるけれど、制作業の現実は、そんなにキラキラしていない。形に残る仕事でいいね、といわれるけれど、形に残ってしまう仕事なのだ。それも、人に依頼されたものを作るわけで、依頼された仕事に文句を言いながら流れ作業でこなすタイプも多い。同業他社へ外注し失敗した折、どうせ捨てられるものにそこまでこだわっても意味がない、つきあっていられない、という人がいた。
でも「ギャラが安い」と言う前に、発注者にとっては「コスト」なのだから「コストになるものは極力削る」工夫をすべきだし、作り方も改良を重ねるべきだと思うようになった。平安時代に大ブレイクした人気仏師の定朝が、コスパ最強の作り方 「寄木造」を発案し、圧倒的な速さで分業による製作法をあみだし、仏像製作に革命を起こしたように。

それにやはり「投資」とみなされるものを制作していたいし、「捨てないで」「読んでしまって」「笑って」という想いを込めて作りたい。そうだ、捨てられる情報誌じゃなくて本を作ってみよう、と思い立ち、出版をきっかけに『組立通信』が誕生した。アメリカでは黒人初の大統領が誕生し、『スラムドッグ$ミリオネア』がアカデミー賞を受賞し、アンドロイドが誕生し、iPhone 3Gが日本に上陸し、麻生内閣が発足した2008年のことだった。そしてリーマンショックがおこり、日経平均は下落して7000円を割り、全国の企業倒産件数は前年比11%増の高水準となり、大阪の経済成長率は39位(47都道府県中)となった年のこと。七転八倒のなか誕生した組立通信だったけれど、思えばつまり、みんなが大変な想いをしているときのことだった。

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