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朝ドラ「なつぞら」の助けられすぎるヒロインをいたぶってみる|面白いドラマって?

「面白いドラマ」とは?

ドラマの主役は「自力で」試練を乗り越えてこそ

ダメな主役は「助けられて」乗り越える

朝の連続テレビドラマ「なつぞら」の主役を観ていると、高校生活あたりから、シナリオが物足りない。望んでもいないのに演劇部では主役に抜擢され、卒業時には番長にプロポーズされ、上京後はあの時代なのに着たい放題におしゃれを楽しめ、次々と人のいい大人が現れる。ヒロイン(heroine=女性の主役)は試練の連続なはずのに、あまりにも受け身すぎる。本人が努力で切り開いていく、というより、降ってわいたようなラッキーな助け舟が多すぎる。

なか「なっちゃん、もう一度、動画の試験を受けてみないか?」
なつ「本当ですか! ぜひお願いします!」

朝の連続テレビ小説「なつぞら」のシーンより

実生活で、こんな助け舟にあやかれることは、ほとんどいない。控え目なのは仕方ない。でも戦後の路上でたくましく生きてきた戦災孤児というのに、何としても自分で運をつかみ取っていく強さに欠けている気がする。頼んでもいないのに次々と出てくる、お膳立てと救いの手。そして無駄に男前のわき役たちが先まわりして手を差し伸べてくれすぎる。
これが脚本家の大石静さんや橋田寿賀子さんなら、もっともっと主役をいじめている。いや、いびり倒しているにちがいない。でもおしんはめげることなく這い上がっていくのだ。
稀代の女性脚本家になったつもりで、朝ドラ「なつぞら」を書き換えてみた。

 なつ「お願いです、また試験があると聞きました。
   私にもう一度チャンスをください!」

なか「だめだ、そんな下手な表現で、
  本当にプロとしてやっていけると思うのか?」

なつ「あれから毎晩、勉強しました!
   今の私に書けるラインを
   一目でいいから見てください!」

しぶしぶ独学のラフ作品を受け取るも急に上司によばれ、机においたラフ作品が風でゴミ箱にすべり落ちてしまう。
掃除のおばさんに焼却炉で燃やされ消えるラフ。
なつ、涙にくれながらまたペンをとる。徹夜で描きなおし、うたた寝をしていると、電報が届く。

故郷の彼が落馬し、即死したという知らせ。
なつには、もう、絵を描くことはできなかった。

やさぐれておでん屋のカウンターに立つ姿。
と、そこに現れたのは…!
(つづく)

なんだか宮藤官九郎さんの シナリオがっぽくなってきた。数々の高視聴率ドラマを生み出している脚本家の大石静さんが「人が観たいものを書いている」「人が見たいのは他人の幸せじゃない、他人の不幸だ」とインタビュー記事で いわれていたが、無駄な苦労を次々にさせ、のたうちまわりながらもたくましく育つ主役こそ、人は観てみたいもの。ヒロインは試練の連続なのだ。

困難に合う朝ドラのヒロイン 組立通信LLC.イラスト

朝ドラの台詞は「ラジオ小説」型

朝ドラはなぜドラマなのに「小説」なのか

ところで、朝ドラは「朝の連続テレビドラマ」なのに、ドラマのオープニングは「テレビ小説」となっている。朝ドラのルーツは、ドラマではなくラジオで朗読していた「連続小説」にあるという。朝から集中してテレビだけをみている人はそういないし、用事をしながらでも聞いているだけで展開がわかるように創ってあるのだ。そして「ラジオ小説」だから、説明台詞が多い。
セリフ、と一言でいっても、メディアの特性にあわせていろいろな創り方がある。説明台詞は、文字通り、台詞で状況を説明させる。映画やテレビドラマでよく耳にするし、楳図かずおさんの恐怖マンガではこんな風に多用されている。

〇 公園の入り口 

ミツヨ「あらこんにちは、鈴木さんと吉田さん」
トモエ「あら、隣のクラスの学級委員のミツヨさん、こんにちは」

会話としては、とても違和感がある。ちょっとSEO施策的な書き方にも感じるけれど、「隣のクラスの学級委員の」…なんて説明しながら挨拶する人はいない。でも「こんにちは」だけで進めると「その人、誰?」と視聴者が置いてけぼりになってしまうのだ。
ラジオ小説を妄想してみた。

〇 冬休み、商店街の金物屋

SE ガラガラ(戸があく音)

ヨシミ「山口のおばさん、こんにちは」

ナオコ「あら、三崎さんとこのよっちゃん、ひさしぶりだねえ!
     昨年の春以来じゃないかい!」

ヨシミ「おととい帰ってきたんです。
    娘の就職が、やっとこっちに決まって」

ナオコ「ご主人のお兄さん、突然で大変だったねえ。
   そういやぁ、おばさんの話はどうなったんだい?
    あの、事故の後の、東北行きの…」

説明台詞で、なんだか朝ドラっぽくなってきた。ただ、いくら説明台詞といっても、ミステリー界の巨匠・横溝正史さんの推理小説「悪魔の手鞠唄」のように、主要登場人物があまりに多いと多用はできない。「三崎さんとこの、次男の奥さんの連れ子のよっちゃん、久しぶりだねえ!」…なんて、詳しく説明されたほうが混乱してしまう。
なお横溝正史さんの書く推理小説には、やたらと複雑な家系図の一族が登場する。民法の試験で見る相続問題の見本のような複雑さで、読んでいて混乱してしまう。横溝正史さんが生まれ育った家庭は、両親が連れ子のいる再婚と再再婚夫婦で「実に複雑な大家族」だったそうだ。今の時代なら資格試験の民法にでてくる「相続問題」みたいである。

登場人物は少なめに、主役は出ずっぱりで

たくさんの人物が登場する原作本をドラマにするなら、人物をざっくり割愛し存在しないことにして書き直すか、ナレーションの出番である。 あまり人数を登場させると、主役の出番が減ってしまう。ドラマを観ていると、 いつしか主人公そっちのけで、「これはスピンオフ?」と思うほど主役が出てこず、別線で脇役の話が走っているドラマを見受ける。連続長編ドラマでは、話に厚みを持たせるために脇役にもフォーカスする場合もあるが、やり過ぎるとブレる。「これ、いったい誰の話やねん」となって、お話が破綻してしまう。群像劇ならともかく、ドラマの主人公はお話の70~80%以上、何なら100%出ずっぱりぐらいがいい。

面白いドラマは、最初から面白い

映画やドラマは最初の「つかみ」が肝心だとシナリオ学校で学んだ。ドラマに限らず小説でも、最初の数行、せめて最初の数ページで観客や読者をつかまないと、次へ進んでもらえない。たとえ数百ページに及ぶ力作でも、最初の数行、数ページでつかめないと、即ボツとなってしまう。 コンクールに出す原稿ならなおさらだ。
ヒッチコック監督の映画みたいに、いきなりショッキングなシーンで始まる「張り手型」のドラマがすべて面白いとは限らないけれど、まぁ「つかみ」としてはOK。 スロースタートの「撫で型」でも、「ん?」と思わせる引っ掛かりや、伏線を匂わせる仕掛けがいる。状況説明のシーンは必要だが、説明よりも先に「あ、お話が始まってる」と思ってもらえないとダメなのだ。
話が始まってるのやらいないのやら、数分見ても「これ何の話?」と脱落してしまうドラマがある。こういうタイプのドラマは、最後まで見たところで印象にも残らない。それに、話の展開が遅くてダラダラしたものが、途中からテンポアップして面白くなる、ということはまずない。ドラマはダラダラした日常ではなく、次々と襲い掛かる葛藤なのだから。主人公は平和であってはいけないのだ。やはり出だしから起伏のある「目の離せないドラマ」が面白い。

 

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