組立通信 WebMagazine

「天神祭の歩き方」取材編集記|人それぞれの歴史を想う

梅雨の雨をたっぷり飲み、山の栄養を吸収して鱧が美味しくなる頃。天神祭の季節である。
天神祭は、最高気温を記録しそうな梅雨明けの大阪市内で、猛暑たけなわの中執り行われる「日本一暑い祭」で、暑い。気温も暑いけれど、なんといっても、関わる人々がおしなべて熱い。その天神祭を、一冊まるごと特集した雑誌「別冊大阪人・天神祭の歩き方地図」を編纂させていただいたことがある。
その情報誌「別冊大阪人・天神祭の歩き方地図」では、じつに多くの方々に取材のご協力をいただいて制作した。祭は年に一度で、祭を前に取材してにして本にして発売するわけで、祭そのものを取材できる機会はない。ひたすら天神祭に関係する人を取材して、パズルのようにつないでいった。

前年、読売新聞全国版「天神祭特集」を編集し、対談を掲載していただく機会があった。けれど「雑誌一冊」となると話が違う。また飲食店や気の合う店主を取材して記事にする、といった性質の取材ライティングものとも、向き合う姿勢が違う。長い長い歴史のある、継ぎ、継がれていく祭なのである。そもそも歴史や昔話は得意ではないし、優れた専門家の方々が多々いらっしゃる。ということで、早々に重々に辞退をした…ものの、そんな言葉は聞こえない関西の名編集長・江弘樹氏に巻き込まれていった。
経験上、名編集人とか名プロデューサーとよばれる方には、「断られたからあきらめる」という普通の人の感覚が、なぜかない。恐ろしいほど、ない。この性質、ちょっと羨ましい気もするけれど、とにかく江弘樹氏にすっかり巻き込まれての編纂だった。


別冊大阪人 天神祭の歩き方地図

まるで「おしん」の丁稚奉公時代

天神祭は「誰も祭の全容を把握していない」といわれるほど携わる人が多く、大阪市の密集した都会の陸と川で、一斉に執り行われる祭である。その、誰も全容を知らない祭を誰より知っている、大阪天満宮の禰宜である岸本正夫さまに甚大なご協力をいただき、手探りながら光の見えるお導きのもと、取材をつながせていただいた。天神祭の運営に携わっているのは、おもに商いを生業とした市井の人たちで、「講」という祭の組織をとりまとめているのは、街や市場や企業のお偉方がほとんど。つまり、お会いすること自体が大変な方々で、取材の折には「時間がない」といいつつみなさまよどみなく&とめどなくお話をされ、お話がはずみすぎて止まらない取材が多かった。

今でも天神祭というと思い出す取材がある。
そのひとつが、卸売市場の会議室でお会いした、昭和ひとケタ生まれの穏やかな物腰の紳士の取材だった。ところが、話が幼い頃の丁稚奉公に及んだとたん、それまでと表情は一転し険しい表情でうつむかれ、「あの頃は…」としぼり出すような声で唸るように言葉が吐き出された。

「つらかった!」

それは、座っているソファの前の床にたたきつけるように出た言葉だった。その言葉にいちばん驚かれたのは多分ご本人で、永く封印していたものが飛び出てしまった、突然温泉に掘り当たり熱湯が湧き上がった、という勢いだった。

米問屋や卸売市場のある大阪一の商業都市で、年端もいかない子供の頃に奉公先で過ごした日々を聞くと、昭和の大ヒットドラマ「おしん」そのもの。時にはそれを超える体験だった。
いじめ、なんて言葉がなかった時代。仕事の辛さよりも、日々、不当に扱われ踏みにじられる辛さとの戦いだったという。人はここまで残酷になれるのかという仕打ちに、家族恋しさがつのり逃げ出す奉公人も多く、実家に帰れるのは正月と天神祭の時だけ。天神祭の間だけは両親や家族と過ごせて、祭のごちそうをいただける。その日だけを楽しみに、日々じっとつらさを耐えていた、と。

「好きも嫌いも、やりたいも、なかったわ。何が自分探しやねん」
仕事に真面目に取り組まない、という孫の話を引き合いに、笑いに紛らせておられたけれど、商いの街で代々商いを営む家系に生まれれば、それを継ぐのは然るべきで、そこには自由も選択肢もない。かけらもない。やれといわれたからやった。行けといわれて行かされた先を、逃げ出す選択肢などなかった。絶対に声を上げないとわかっている弱者の前でなら、本性むき出しでどこまでも意地悪になれるのが人間だ、と。

「時代のせいもあるけど、まあ、祭も平和になったもんやで」。
取材を終え、仕事に戻って行かれる後ろ姿はなんだか取材前より大きくて、どっしりとしていた。存在感の怖い方ではなかったし、怒りや暗さむき出しでもなく、普通の波長を漂わせる一般人よいうか、樹齢何百年の樹木のような、ずん、とした大きさを感じるほど。
取材、という形でお話を伺わなければ、決して知り得ない個人の歴史。封印して乗り越えてこられた年輪に少しだけ触れた、そんな経験だった。


またある講の役員さんは、これから祭の打ち合わせがあるから30分だけなら、と喫茶店での取材中、ふいに身を乗り出され、「あんたの声なぁ、兄貴ンとこの子が若い時とそっくりやねん、びっくりしたわ」。
なんでも、結構なお金を無心され、貸したらだんだん返ってこなくなり、姿を消したのでもう長らく会っていないという。
「兄貴も親父も、ちっとも商売人向きやなかった。
 返せへん借金作っては、家傾かせて。
 人に迷惑かけるだけかけて、しまいに逃げてしもたんや」

その亡くなった親御さんの借金を抱えながら商売を続けていたある日。
「天神祭の日や、親父がよそでこしらえた異母兄弟がはじめて尋ねてきてな…」とさらに話は転がっていく。
これがフィクションではなく、目の前に座っていらっしゃるフツーのおじさんの身に起きた、体験談なのだ。うっかりあいづちも打てない、思わぬ展開のお話。

「ま、いろいろややこしい人も多いけど、それが世の中っちゅうもんや。
 がんばって仕事しぃ。あ、あかん、すっかり遅刻やわ」
お会いしたときよりすっきりした表情で、去りゆく背中を見送ることとなった。

こちらが取材で呼び出したというのに、茶店(サテン)ですっかりお茶をごちそうになり、化粧箱入の天神祭の扇子をおみやげに頂戴したこともあった。
どの人の背中にも、これまで生きてきた時間、重ねてきた歳月が、にじみ出ていた。単に商店街や祭ですれ違うだけなら、知り得なかった人の人生。なんて色々なことを乗り越えながら、何もなかったような顔をして生きているのだろう。
時々、人生の辛さや苦しみを一身に背負ったような顔をした10代20代を見かけるけれど、不機嫌丸出しで歩いている人とすれ違うことがあるけれど、傷のない大人なんていない。大抵の大人は、みんな折り合いをつけながら「どうにかこうにか」生きているのだ。
狭い天満の街で、たまたま同じ時代に生きている、人それぞれの人生。
まさに「人の数だけドラマがある」のだ。

取材という短い時間に、ひとときご一緒した人たちが、ひたむきに生きてきた、そして今存在している、そのことを私は知っている。
そんな天神祭の取材だった。

別冊大阪人「天神祭の歩き方地図」より。後半には食の街・天満の飲食店特集も。

新型コロナウィルスの影響で、2020年から2年に渡り、中止を余儀なくされることとなった天神祭。2021年も「神事のみ」となりました。(※2021天神祭について)一日も速いコロナの収束を願いつつ、せっかく取材でお聞きしたものの、どこにも書く機会のないままだったお話をまとめさせていただきました。取材にご協力いただいたみなさまに感謝の気持ちをこめて。 (元・天満スイッち編集室)