言葉は何のためにあるのだろう? 何をするために言葉は生み出されたのだろう?
言葉って何だろう?
誰もが思ったことをささっと言葉にして打ち込み、SNSに公開できる時代。
会ったこともない他人の吐いた毒や、牙をむいて襲いかかってくる言葉に、「やられた」経験はないだろうか。自分が傷つけていることもあるのだ。
縁があって手がけた本が目立って、ありがたくもマスコミで取り上げられたあと、顔も知らず名乗りもしない他人から「悪意のある批判」を立て続けに浴びた。ありがたくない郵便物も送られてきた。陽の後には陰が来る…のはお決まりだけれど、まともに受けて転んでしまい、対人恐怖症になっていった。めずらしく、結構長かった。思えば無防備すぎたのだろう。
「人が怖い」沼にはまって、だんだん「怖くて言葉が出せない」状態に陥り、ついには「しゃべれない」状態になっていた。そこにコロナがやってきて、「人は他人にこうもひどい言葉がはけるのか」という光景に、東京でたびたび出くわした。さらに「ここまでひどい目にあわされるのか」と、言葉でぼろぼろに傷つけられた人たちを見た。誰かを刺したその刃先は、やがて自分に返ってくるのに。
書くこともしゃべることもできなくなって「コンテンツ制作業」から離れること数年。
書けないのなら、職業としてはあきらめよう。大量にたまった過去のメモやスクラップ記事を、捨てるつもりで整理していたら、だんだん、集められた言葉に捕まり、励まされていた。
言葉を扱う職業のプロが、どんな姿勢で言葉に向き合い、言葉を取り扱っているのか、言葉の切り抜きを共有してみたい。 独り占めしていないで。
(文:組立通信LLC.マキ)
寺山修司さんの「ポケットに名言を」(角川文庫)より。
そのかわり私は、詩人になった。 そして、言葉で人を殴り倒すことを考えるべきだと思った。 詩人にとって、言葉は凶器になることも出来るからである。 私は言葉をジャックナイフのようにひらめかせて、 人の胸の中をぐさりと一突きするくらいは 朝めし前でなければならないな、と思った。
寺山修司『ポケットに名言を』(角川文庫)
「言葉の錬金術師」といわれる寺山修司さん。どんな覚悟で言葉と向き合い、言葉を扱って世に出してきたのかが垣間見える名言。言葉を扱うことは、それほどに怖さをともなう仕事なのだ。そして「わかった上で残酷に使う」方法もあるのだ。
名作詞家で作家の阿久悠さんは「お笑い」の言葉選びに関してこんな言葉を残されている。
笑いは劇薬と同じである。この薬の使用には専門的知識、免許を必要とします、と断りたいくらい危険なものなのである。誰もかれもが使えるものではない。使い方を間違えると人を傷つけてしまうということを今知ってほしい。
テレビ情報誌に掲載されていた阿久悠さんのコラムより
「ほぼ日」の経営者である糸井重里さんは、多感な少年時代に父親が再婚、義母との会話に日常的に苦労をされたそうだ。子供ながらに気を使って言葉を選び、甘えたつもりで発した言葉が義母を傷つけ「この子は言葉にトゲがある」と取られてしまう。以来、「言葉を口にすることは怖いことだ」と思っていた。
糸井重里さんは「優しくて繊細でやわらかい言葉を扱うコピーライター」という印象だけれど、糸井重里さんの著書『ボールのようなことば。』は、言葉の持つ「怖さ」を知っている人ゆえの表現なのだろう。
ああ、ほめあって生きていきたい。
糸井重里 著『ボールのようなことば。』
これは、ぼくの最大の夢だ。
声で言葉を表現する声優の大御所、小原乃梨子さんは著書に「ことばはガラスのようなものだ、壊れやすいけれど、人間の宝物である」と書かれている。
不注意に取り扱えば手から滑り落ちて粉々に割れて飛び散り、鋭い破片で血を流すこともある。
小原乃梨子『声に恋して 声優』(小学館文庫)
けれどていねいに磨き上げれば、キラキラと輝いて暖かな太陽の光も通すし、鏡のように姿を映すこともできる。
小原乃梨子さんの声といえば、洋画での小悪魔女優の吹き替えはじめ『ドラえもん』ののび太や『未来少年コナン』のコナン、『アルプスの少女ハイジ』のペーター少年、『ヤッターマン』のドロンジョなど、誰もがアニメや吹替で耳にしている。その小原さんに、直接、音読のご指導を受けられる機会があった。
受講生は、かけだしの声優さんからまったくの未体験者まで幅広く、なんとも和やかな場の雰囲気で、まずその雰囲気に驚いた。(声のセミナーで「和やかな雰囲気」なところはめずらしい。こわい指導者に当たる確率が高かった)。
「言葉は、自分の気持ちを伝えるものではなく、ていねいに相手にお届けするもの」
「私の持っているものは全部あなたたちに与えたい」と指導をされていた、小原乃梨子さんのレッスン中の言葉より。
エレベーターでご一緒したとき、小原乃梨子さんの鞄をお持ちしたら、資料でズッシリ、ボウリングの球でも入っているような重さ!
「別の場所で指導をしてきたのよ、明日も朝はやくから収録で…」エネルギッシュというより、80代とはとても思えない(むしろこちらが負けている)姿から、会うたびに元気をいただいていた。
「作品の中ではいつでも子供になれるし、初恋でドキドキしている10代にも戻れるのよ、いくつになっても」。
チャーミング、という言葉がぴったりの、素敵なお人柄だった。
短歌と和歌は、日本の歌のルーツである。劇作家の寺山修司さんは、歌人でもあった。歌を詠む人の繰り出す言葉は、まるで言葉そのものが音楽のように短くても輝いている。
歌を詠む慣習は平安時代に始まり、皇室ではいまも日常的に歌が詠まれている。一般家庭から皇族に入るお妃教育の中には、1日1句を100日間読見続ける、という特訓があるそうだ。31文字の言葉を選ぶ時、いちばん大切なのは、「相手の心を感動させること」だという。
日本の歌のルーツである和歌には「私」は登場しない。「私の感情」もいれない。高橋真梨子さんの代表曲「桃色吐息」やKinKi Kidsの「全部だきしめて」など、数多くの大ヒット曲を手がけられた名作詞家の康珍化さんも短歌研究会の出身である。
康珍化さんの織り成す言葉の表現は、決してむずかしいものではない。でも映像が浮かび、ドラマがある。遠い他人の話ではなく、自分にもあの日にあったかのように心に共鳴する。JPOPの歌詞には、音の数にむりやり合わせたような、こねくりまわした言葉がときどきあるけれど、ヒット曲を連発する作詞家が書いた詞は、意外にシンプルでわかりやすい。わき出る気持ちを書き留めた、日記みたいな歌詞ではなく、リズミカルに音楽として流れていき、言葉の音が心に残る。
聴く人が共感する、ふさわしい言葉をひねり出す。何度も何度も選びなおしてそぎ落とす。世に送り出し、共感される「言葉」への緊張感。言葉を磨いて輝かせた、そんな感じが歌詞から漂っている。
最後に、過去のメモより。
世界中で愛されている漫画「ムーミン」、ミーのセリフから。
あのね、いい方を選ぶんじゃなくて、あなたが思う方を選ぶのよ。
「ムーミン」よりリトルミーのことば
最初はいろいろ失敗するわよ、あなたバカなんから。
でもそのうち自然といい方を選ぶようになっていくわよ。
最初からうまくやろうなんて、自惚れてるんじゃないわよ。
北欧の小説家であり画家で漫画家のトーベ・ヤンソンの哲学的な言葉は、日本人としてはうらやましいシニカルさ。
スヌーピーの「ピーナッツ」と同じく、どこをめくっても言葉が輝いている。原作もきっとすごいけれど、翻訳の力もすばらしい。
自分と向き合うには、ひとりになるんじゃないわ。
いろんな人と関わりあうのよ。
お友達とおままごとしろって言っているんじゃないの。
自分の知らない、自分を知らない人たちと関わりあうのよ。見えてくるわよ、本当の自分が。
「ムーミン」よりリトルミーのことば
追記:この投稿は2019年の初稿以降、長らく未完だったものです。
自分の知らない、自分を知らない人たちと関わり合う年月を経て
2025年の終わりに、ようやく公開する運びとなりました。